moremorenore’s diary

ゆったりゆるゆる

耳を傾けるということ 【映画の記録-シックスセンス-】

 去年の秋ごろに友達と自宅で『シックス・センス』(1999)を見た。ずいぶん前のことなのだがとても印象深かったので記録に残しておきたいと思う。*映画の内容にも触れるので未視聴の方は要注意。

 主人公は小児精神科医として活躍するマルコム・クロウ。映画は彼が元患者であったヴィンセント・グレイという青年の銃弾を受けるところから始まる。一年後に回復したマルコムは自分が真に患者を助けられていなかったことを嘆き、さらに妻に無視される苦悩の日々を過ごす中で、コール・シアーという少年に出会い交流を重ねていく。そして次第にマルコムを信用するようになったコールは自分が霊を見ることができる第六感を持っていることを打ち明ける…という具合に物語は進んでいくのだが、おそらくご存じの方も多いようにこの映画は終盤になってからようやく観客に知らされる衝撃のどんでん返しで有名である。が、今回はそのどんでん返しではない別の視点で『シックス・センス』のメッセージ性について考えていきたい。

 

 私自身は幽霊が見えたりその存在を信じたりする人間ではない(見たことがないので)。しかし、例えばある人の身体から命の灯が消えようとするとき、「死にたくない」という気持ちや「まだやり残したことがある」という未練だけが昇華されきれず身体から押し出されて独り歩きし始めたら…この思いや未練こそが『シックスセンス』に登場する幽霊たちの正体なのではないか、と想像したことがある。

 そんな幽霊たちはみんな助けを求めている、とマルコムは言う。何か訴えたいことがあり、だからこそコールの前に姿を現すのでは、と。しかし実際、生者は死者を助けられない(映画の中では母親に殺された少女がコールの手によって母親を告発することができたけれど、これからコールが出会う霊たち全てに同じことをしてあげられるわけじゃない。ところで少女の葬儀の場面で犯人の母親だけがが赤いスーツを着ていたのは面白い伏線だ)。人間は死んだ人を生き返らせることも、時間を巻き戻すこともできないからだ。そんな中で生者たちが唯一死者にしてあげられること、それが「聞いてあげる」ことなのだ。ただ相手の話を聞くだけじゃなくて、相手の気持ちを受け止め、信じて忘れないこと。これは相手の冥福を「祈る」と呼ばれる行為に近い気もする。

 コールはマルコムに「死者と対話してみてはどうか」という提案をされたときも、「死者がほかのだれかを苦しめたいといってきたらどうするのか」と心配するどこまでも利他的な少年である。私は自分の持つ能力や存在にわざわざ意義を見出そうとする考え方(「私はこれをするために生まれてきた」というような)は苦手だけれども、もしなぜ死者の姿が見えるのがコールだったのかという問いにあえて答えを探す必要があるならば、その答えはきっと彼の勇気と献身的な精神にあるのではないかと思う。

 コールはこれからもいろんな幽霊と出会い、彼らのやりきれない気持ちに耳を傾けていくのかもしれないが、それは「コールに霊が見える能力があるから」という単純な因果関係からではなく、ましてやその行為が誰かに称賛されるからというわけでもなくて、彼が無念のうちに亡くなっていった他者を思いやる気持ちがあるからだ。

 周囲の人には見えないものが見える恐怖は私たちが想像する何倍も恐ろしいことのはずだ。勇気を出して幼い少年が幽霊と向き合っていく姿は、何とも切なくそれでいてしたたかである。映画序盤において大好きな母にすら苦しさを打ち明けられないときにコールが心のよりどころにしたのが神様だったところには一種のもの哀しさがある。

 

 そういえば、先日鑑賞した『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』では鬼太郎が苦しみの中で死んでいった時弥に何かしてほしいことはあるかと問うた時、時弥が最後に残したのは「忘れないで」という言葉だった。

 『シックス・センス』でも『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』でも、誰かの死の背景にはどんな経緯があったにせよ、かつて明るい未来を歩むはずだった命が存在した事実を「聞いて」、「知って」、そして「忘れないで」と訴えている。f:id:moremorenore:20240220220607p:image