moremorenore’s diary

ゆったりゆるゆる

私はウェンズデーちゃんとは友達になれないかもしれない…私はなりたいけど 【映画の記録-アダムスファミリー2-】

友達と映画鑑賞会をしよう!ということになり、カラオケで鑑賞会をしてきた。友達がいくつか選んできたオススメ映画の中から私が『アダムスファミリー2』をチョイス。候補の中に『コープスブライド』もありそちらも大いに興味があったのだが、友達の「第三子を殺そうとするウェンズデーちゃん」というパワーワードに全て持っていかれてしまった。私は1を見ていない(けど結末は何となく知っている)ので「無印見てないけど続編見ても大丈夫?」と聞いたが全然問題ないとのこと。

 

この記事のタイトルからわかるかもしれないが、私はアダムスファミリーを知らないながらもウェンズデーちゃんがとても好きだ(ど素人の私が言うのもあれなのだが、ウェンズデーちゃんのファンは結構多い印象がある)。名前のインパクトさることながら、私がウェンズデーちゃんを好きな理由のうち一つが彼女のブレなさなのではないかと最近考えている。

これは別に私だけではないのだと思うのだけれどありのままの自分でいるというのは案外難しい。外で自分を偽るのはある種社会的作法のような面もあるし、逆に自分の趣味を否定されればそれなりに凹むものである。そういう意味でウェンズデーちゃんのブレなさというのは「社会性がない」と非難されそうなものではあるけれど、それは社会性がないというよりはむしろ芯の強さと呼ぶべきものかもしれない。彼女と彼女の家族の趣味や好みは他の人々に易々と受け入れられるものではないが、それを理由に彼らは他人を糾弾しないし、自分たちと共通点がある人ならば少しずつ仲良くなっていくことだってできる。これは異端を責めたて無理やり自分たちに同化させようとする作中の陽キャキャンプ集団と強くコントラストをなしているのが、この映画の重要なアクセントなのだと思う。私はフィクションにおける善属性特有の暴力的な面がとても嫌い(もう一周回って好き)なためキャンプの演劇シーンは、サンクスギビングを皮肉な視点で語っていることも含めて愉快痛快に見れた。

例え嫌われても怪訝な目で見られても、ウェンズデーちゃんが他人の都合で簡単に自分を曲げることは無い事実は私のように他人に影響されやすい自覚がある人間にとっては安心感がある。そういうわけで私はウェンズデーちゃんに憧れに近い気持ちを抱いてるし、もし私があの世界にいたのなら彼女と友達になりたいとすら思っているのだが、当のウェンズデーちゃんは私とは友達になってくれないだろうなと思った(私自身もアダムス家の流儀に敬意は払っても、100%ついていける自信はない)。

 

それにしてもアダムスファミリー2は、デビーさんがビジュアル的にアダムス家と正反対に造形されている(白い服、明るいボブカットetc)など視覚面に注目しても興味深いし、家族の絆が強く人道的だけど「普通」には馴染めない家族VS「普通」の中にいるけど非人道的な一面をもつサイコパスという構図がとても面白い。

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