moremorenore’s diary

ゆったりゆるゆるいろんなこと

「愛」を理解しないまま生きるキャラクターの存在 ー『ヒプノシスマイク』邪答院仄仄Aroリーディング、及び伊弉冉一二三との対話に垣間見えるエンパシーの可能性ー

キャラクターラッププロジェクト『ヒプノシスマイク』

『ヒプノシスマイク』は、EVEL LNNR RECORDSによって2017年から始動している音楽原作キャラクターラッププロジェクトである。

舞台は「H歴」が始まった日本。「愚かで野蛮な」男性に変わり、女性のみが政権を握るようになった世界で、男性陣はラップによって戦うことを推奨されるようになる。

もともと本作は男女二元論を前提とした物語設定がなされていることから、そこに当てはまらない人々への視点が欠けているという点がたびたび批判されている。また「女性だけが政権を握るようになった」という設定もまた現実世界のセクシズムを反転しただけのものであることから、性差別に真っ向から反対している作品とはいいがたいとの声が大きい。

このようにジェンダーやクィア、フェミニズムのいずれもの観点から見ても批判される点が多く存在する作品である『ヒプノシスマイク』だが、そのキャラクターの中には明らかにクィア性を読み取れるキャラクターがいることもまた事実である。

 

『ヒプノシスマイク』の作品形態

『ヒプノシスマイク』は音楽が原作のコンテンツであるがゆえに、基本的にはリリースされるラップ音楽が原作となり、ドラマパートのシナリオは物語の枠組を補完させる形で付随されているという扱いだ。

より具体的に説明すると、『ヒプノシスマイク』では不定期にアルバムやEPがリリースされるが、そこには各キャラクターやチームが歌う曲が収録され、ストーリーが進むドラマトラックも含まれることもあるが、そこでは最低限の話の流れが聞き手に伝わるだけである(しかも音声のみのトラックなので、アニメーションや実写映画などよりも聞き手が想像で補わなければならない描写も多い)。

ここからわかるように、『ヒプノシスマイク』のコンテンツ(表象物)の形態としては比較的新しめの部類のものであるように思われる。再三繰り返すが『ヒプノシスマイク』において、あくまで「原作」として扱われるのは音楽なのであり、物語そのものであるドラマトラックやコミック、アニメといったメディアミックスはサブの立ち位置に置かれている。むしろ音楽そのものが物語となっているほうが正しいのかもしれない(それゆえなのかファンの間では物語設定やドラマの進め方に穴が多すぎるという意見も多く、その点では筆者もおおむね賛成である)。

要は『ヒプノシスマイク』におけるストーリー展開は最低限の枠組みであり、主軸に置かれているのはキャラクターソングを通した聞き手(読み手)のキャラクターや世界観への解釈/読解の部分なのである。音楽の歌詞というのは、フィクション作品を表象する方法としては小説や映像よりも抽象的なものに思われるが、これが読み手の受容に主眼を置いたものであるととらえると納得がいくだろう。

最近は『ヒプノシスマイク』だけではなく様々なフィクション作品が、あえて受容のための想像の余地を多く設定する、という方法をとっているように感じられる(例えば2022から始動しているVIVINOSの音楽プロジェクト『Alien Stage』もその例に含まれるだろう)。

なぜこのような説明を長い前置きとして長々と書き綴ったかというと、この記事において『ヒプノシスマイク』のどの媒体をメインに分析していくかということをはっきりさせて説得力を持たせたかったからだ。

ここでは、キャラクターの諸設定を確認しながら、そこに絡ませる形で随時楽曲を引用しつつ、主にストーリー展開を引用していく。コミックス版やアニメ版などのメディアミックスも存在するが、今回は参照しないこととする。

 

邪答院仄仄という存在

さっそく本題へと入っていきたいのだが、メインキャラクターだけでも総勢21名というラインナップの中で、今回着目したいのはシンジュクディビジョンのチーム「麻天狼」に所属する伊弉冉一二三、そしてH歴において政治の中枢を担っている「言の葉党」に所属する党員、邪答院仄仄の三人である。

伊弉冉一二三は『ヒプノシスマイク』始動時からいたキャラクターで、彼は神宮寺寂雷率いるシンジュクディビジョン「麻天狼」に所属している。

対して邪答院仄仄が初登場したのは、2021年に行われた2ndDRB※¹開催時期のドラマトラックだ。

彼女の登場を皮切りに、飴村乱数率いるFling Posseと中央区との対立が徹底的に描かれたり、伊弉冉一二三の過去があらわになったりとしていることから、2ndDRBを始点として物語を進めたり既存キャラクターの内面をより深く掘り下げたりするために作り出された、テコ入れの役割を果たしているキャラクターともいえる。

その「テコ入れ」という面が強いためなのか、ドラマパート内において仄仄本人の過去や設定が深く掘り下げられることは少なく、物語をたどってみても「邪答院仄仄」という存在自体が物語の主軸となることはほとんどどないと言ってよい(実際にヒプノシスマイクというコンテンツの最終局面ともいえる劇場版には邪答院仄仄は一切登場しない。キャラクターの立ち位置としては、那由多や衢といったサブキャラクターの扱いと同じ分類に入るのだろう)。

しかし、そんな邪答院仄仄がドラマパート内において、那由多や衢に比べて内面や設定が表立って頻繁に出てくる瞬間がある。それがシンジュクディビジョンのチームメンバーである伊弉冉一二三や観音坂独歩と対峙する時なのである。

というのも、仄仄は一二三や独歩と同じクラスの友達(あくまで一二三の言葉を借りれば)であったという過去をもち、そして伊弉冉一二三が女性恐怖症となった原因を作り出した張本人なのである。

だからこそ仄仄がこの二人と対峙する際は、「物語を進めるテコ入れのための的キャラクター」の「中王刑事局特殊部隊【言浚(ことさらい)】」の邪答院仄仄としてではなく、「物語内でその人自身が描き出されるため」の「伊弉冉一二三と観音坂独歩の幼馴染」である邪答院仄仄としての面が強くなると言えるのだ。

※¹:DRB(ディビジョンラップバトル)とは、『ヒプノシスマイク』の世界において、不定期に中王区の主催しているラップバトルの大会である。二回目の開催となった2ndDRBは、既存のディビジョンに新たに登場したオオサカ、ナゴヤディビジョンを加えた合計6チーム同士のバトルとなった。

 

邪答院仄仄のクィア性

邪答院仄仄のキャラクターとしての人格は、端的に説明するならば、「人の大切なものを壊すことが好きなサディスト」である。

ドラマトラック『Not For You』(以下『NFY』)における彼女のセリフである。

物語中盤、彼女は対峙する一二三に向かって「愛は本当にあると思う?」「愛っていつかは冷めるもの。じゃあそれって偽りの感情じゃない?」と問う場面がある(しかも最終的にチームのスローガンとして「愛」を掲げる麻天狼のメンバーに対してこういうのである)のだが、この時点ですでに、邪答院仄仄はAro/Aceのキャラクターとして読解できる余地があるように思われる。

もちろん彼女の言う「愛」が「恋愛」を限定的に指すものとは言えないが、「家族愛」や「友愛」などより広義な「愛」を指し示すものだとしても、どのみち彼女が「人間はだれしも他者に対して”愛”という感情を持つものである」という規範になじめないキャラクターであるという点で、彼女は明らかに(広義的にではあるものの)「変態=クィア」として解釈できる。

また彼女は(倫理的にかなり問題はあるのだが)同時に二つの核家族(男女の両親、数人の子どもといった、現代において広く一般的に想定される家族形態)からなる「家庭」を崩壊させている。

一つは自分の所属していた家庭(事実は定かではないが、彼女は自分の両親の関係に亀裂を入れた張本人であるとされている)、そしてもう一つが伊弉冉一二三の家庭であり、この「普通=正常」な家族を壊したとみなせる(改めて言うと、彼女の行為は道徳的にも倫理的にも間違っており彼女の行為に全面的に賛同する意図は全くない)点からも、彼女は正常と変態の境界線をさまよっている。

 

さらに、そもそも邪答院仄仄の「崩壊に快楽を感じる」という側面自体がクィア性に満ちた者であり、彼女は「セクシュアリティの装置」を崩壊させる力を持ったキャラクターと言えるのではないだろうか。

この「セクシュアリティの装置」というのはフーコーによって提示された概念であり、「私は何者なのか」というアイディンティティの問題が性的な事柄と強く紐づけられている事態のことを指す。(松浦、144-145頁)

ここでは詳細な説明は省くが、フーコーは誰もがセクシュアリティに囲い込まれてしまうこの「セクシュアリティの装置」を相対化し、それに対抗するための手段として「脱セクシュアリティ化」をあげているのである。仄仄の性質から垣間見える、「崩壊」に由来する(つまり「性的」なものに由来しないとする)サディスト的な快楽のあり方は、まさに「快楽の脱セクシュアリティ化」(松浦、249頁)であると言えるだろう。

 

そして最後に、彼女のAro的側面が最もよく表れているように思われるのが、彼女の唯一のソロ楽曲『おままごと』(2023)(歌:ファイルーズあい、作詞作曲:薔薇園アヴ)だ。

ファイルーズあいの歌い方も相まって、一見すると仄仄のサディスト気質が色濃く映し出された一曲であるように感じられる。

しかし、先述したような仄仄のクィア性や繰り返される「おままごと」という単語そのものに注目するならば、『おままごと』という楽曲は恋愛感情を持たなかったり他人に性的に惹かれることがないAro/Aceの人間が自分なかで持ちえないそれらの感情をもつ他者たちは「おままごと」という虚偽的な「ごっこ遊び」をしているように見えるということを歌ったものとも読むことができると考えられるのである。

なによりも楽曲終盤における「人間ごっこはどうだった?」という歌詞も実は「どうやっても対人異性愛が強化された世間になじむ血の通った”正常”な人間になりきれない」自分への自虐に読めてくる(ヒプマイの世界観においても現実世界と同じように対人異性愛規範が強いのかはわからないが、そのあたりの設定も特に出されてはいないのでとりあえず自由に想定してみることとする)。

むしろ私は初めて聞いたときから自虐の意図が込められているのかと思っていたため、友達に「乱数向けの言葉なんじゃない?」と言われて「確かに…」と我に返った。

ただ、前置きで述べたように音楽が原作の『ヒプノシスマイク』においては同じ歌詞だとしても様々な読み方ができるのは逆に醍醐味でもあるだろうといえるので、あえてどちらの読みが「正解」なのかを考えることは今回はしないこととする。

 

伊弉冉一二三と邪答院仄仄の対話から見えてくるもの

そんな邪答院仄仄だが、2026年3月時点で麻天狼の最新ドラマパートと言える『Not For You』で伊弉冉一二三と通算三回目の再会を果たす(一回目はドラマトラック『錆びつけば進めず、奥すれば誇りを失う。故に我々は己に非を焼べ、火を灯し続ける』、二回目はドラマトラック『The Block Party -後編-』での出来事である)。

そして興味深いことに、邪答院仄仄は、このドラマパートでサブキャラクターとしてはかなり珍しく深い内面の掘り下げが試みられている(このパートで邪答院仄仄がメインで語られたという訳では決してないのだが、山田三兄弟の母親である那由多や神宮寺寂雷に保護されていた神奈備衢と比べれば比較的深く掘り下げが試みられていると言える)。

先程も述べたように、仄仄のクィア性、‪殊Aro的な瞬間が垣間見えるのはこの『NFY』における一二三との対話のシーンであるといえよう。

さらにここは、一二三にとっては過去のトラウマと自ら対峙する屈指の緊張感のある場面ともいえるのだが、彼は仄仄に対して過去の罪を清算するように促し、そして彼女を「理解したい」と訴える。

 

「理解」という行為は、ある側面からすると少し危うさを含んだものである。

もちろん、人が対話を通して互いを理解し合おうと試みることは素晴らしいことだ。まずは相手を「理解」しようと歩み寄らなければ、人間関係は始まらない。

その一方で、相手のことをなんでもかんでも「理解」することができると思い込むのは危険だし、本当は何も分かっておらず、ただ自分の思考の型に相手を押し込めているだけかもしれないのに、自分は相手を「理解」しているのだと考えてしまうのは、一種の暴力的行為であるともいえる。そもそも人は、完全に他人を「理解」することはできない。

これは、セクシュアルマイノリティのあり方にも当てはまることではないだろうか。

そもそも、当然ながら異性愛者が非異性愛者の存在を完全に理解することはとても難しいことのはずである。

というのも、(考えてみれば当然のことではあるのだが)「好きなる性別が違う」「そもそも他人に惹かれることがない」という根本的な指向のあり方から、現存する制度の中では非異性愛者がその対象に含まれないことがあるなどの制度上の問題まで、考え方も感じ方も立場も何もかもが違う。

それを無理やり「理解」しようとする、もしくはしたと言い切るのは強引なことだし、これは同性婚がいまだに実現されていないにもかかわらず、同性愛が大衆エンターテインメントとして消費しながら「対象の性別が違うだけで人を好きになることは同じ」とうそぶく傲慢さと似たものがある。

 

『NFY』中における仄仄は「理解」の困難さを身をもって実感しているような発言をする。

「理解したい」と訴える一二三に対し、仄仄は幼いころ仲睦まじかった両親の関係にいともたやすく亀裂が入ったという過去を語る。そしてその直後に、それが嘘であるということを明かしながら、「幼いときに何かトラウマ的な出来事があれば、私の行動も理解できると思ったでしょ?」と一二三をなじる。

このやり取りはとても興味深い。というのも、Aスペクトラム上にいる人は、実際に全員が性嫌悪の感情を持っているととらえられやすいうえに(当然ながら、そもそも性嫌悪の感情を持っていること自体が悪いわけはない)、「過去に何か性的な事柄に関連するトラウマがあるせいでそうなったのだ」と勘違いされやすく、言われやすい傾向がある。

仄仄は「行動にすべて理由があるなんて思わないことね」と一二三へ言い放ちながら、まさにこのような勘違いや「理解」の傲慢に対してはっきりとNOを突き付けているのである(なお、ここでは割愛するが、実は仄仄自身も「理解」の幻想の罠にかかっているところが随所に見受けられる)。

 

しかし、「あなたには到底理解できないから、話しても(あなた(=一二三)の家族を壊した)理由はないに等しい」と突き放し、「理解」を端からあきらめる仄仄の行為もまた、一つの思考放棄であると言わざるを得ない。

先ほど私は「理解」は危うい行為であると述べたが、とはいえ最初から「理解」をしようと努めなければそもそも人間関係も信頼関係も始まらないのである。

 

それでは私たちは自分にとって未知で「理解」ができないかもしれない相手と対峙したとき、どうすればよいのだろうか。

ここで提示したいのが、「エンパシー(empathy)」という概念である。

オックスフォードの英英辞典サイトには、“the ability to understand another person’sfeelihgs, experiences” と書かれており、つまり「他人の感情や経験を理解する能力」のことを指す。

シンパシーというものが自然と発生する共感の感情であることに対して、エンパシーは自分が共感したり同情したりすることではなく、むしろ共感できない感情や経験へ想像力を働かせることだ。

つまり、私たちは努力のすえに完全に他者のことを「理解」できないとしても、そのなかで相手を「想う」ことはできるし、その試みを続けていかなければならないのである。

 

『NFY』中で、仄仄との対峙を通して傲慢さが垣間見えていた一二三の言動は、その後の対話で少しずつこのエンパシーが現れるようになっていくように見える。

たとえ「理解」できるはずがないという事実を突きつけられながらも、使用すれば命を失う真正ヒプノシスマイクを取り出した仄仄に対し、「お前が死んだらおれっちは悲しい」と声をかけて対話をあきらめようとしない。

『NFY』終盤における仄仄と一二三の対話は、「理解」という概念を主軸にしながら、その不可能性を表象すると同時に、今後は両者がエンパシーによる人間関係の再構築を試みようとする可能性を呈示しているのである。

 

さいごに

今回はドラマパートや楽曲を通して邪答院仄仄のAroリーディングをするとともに、伊弉冉一二三との対話の中に表象されるセクシュアルマイノリティへの一方的な「理解」の押し付けの強引さと、それを克服しうるエンパシーの可能性について論じた。



大きな山を越えてついに劇場版でクライマックスを迎えた『ヒプノシスマイク』だが、劇場版は「インタラクティブ映画」という形式で製作、公開されており、今後物語の世界がどのようになっていくのかはいまだに予想がつかない。

その中で、今後のドラマパートの中で再登場するのかも不明な邪答院仄仄ではあるが、私はAスペクトラム上にいる人間として、『ヒプノシスマイク』の世界が、今後も彼女が「愛」というものを理解せずとも、彼女がありのままで生きらるものであればいいなと願っている

 

補足;伊弉冉一二三と観音坂独歩のクィア性について

最後に補足として、伊弉冉一二三と観音坂独歩もまたヒプノシスマイクの中でも屈指でクィアな側面を併せ持ったキャラクターであることについて考察したい。

伊弉冉一二三は最もわかりやすい例だろう。彼は女性恐怖症であり、ジャケットを羽織らない限り女性と話すどころか対面することもままならず、生活に困難を抱えている。

また、女性恐怖症である一方で、日本神話に登場する女神「イザナミ」(創造と死を象徴する)の名前を持っているという点もそうなのだが、彼は独歩との同棲の生活の中で炊事洗濯掃除などといったケア労働の一端を担っている存在であるということにも注目すべきである。

しかし彼のクィア性は彼の持っている女性恐怖症という要素からくるというよりは(これは仄仄による後天的なものであり、どちらかというとPTSDに近いものだ)、むしろ彼が女性恐怖症を克服したいという強い意志を見せるときや、自らを傷つけた仄仄までも「理解したい」という感情や博愛の精神を感じさせる時である。

 

一方観音坂独歩はというと、一見本当に「普通の」サラリーマンのようである。

本人もその自覚があり、自虐癖のある彼はよく周りと比べてネガティブになるということがよくあるのだが、彼はヒプマイのキャラクターの中で

「普通の感覚がなきゃ生きていけない」などと述べるように、過剰に「普通」というワードにこだわっている。

しかし、ヒプノシスマイクを操りDRBに参加している時点でも彼は十分『ヒプノシスマイク』の世界観では優位な存在であるし、時にはバーサーカー的な立ち位置になるという点でも、ある意味矛盾が滑稽なキャラクターといえる。

『NFY』終盤では「仕事よりも大切なものがあり、それが仲間や家族である」と上司や接待相手に言い放ち(ここで自分の所属するチームメンバーを彷彿とさせる「仲間」だけではなく、「家族」という単語を使用していることも興味深い。もしもこの「家族」という言葉の中に一二三や寂雷が含まれているのだとしたら、そこにもまたクィアな瞬間を垣間見ることができる)、仄仄と対峙する一二三を助けに向かう。

 

そして何よりも注目すべきは、劇場版ヒプノシスマイクのエンディング曲『MIC AS ONE』における独歩のリリックパートでは

 

「そりゃでけぇ  戸建てで  家族持ちはそりゃ偉ぇ

でも人生それだけじゃねぇ

自己肯定感の育てゲー」

 

という歌詞になっていることだ。

家を持っている核家族のイメージは、現代社会に広く浸透している規範的な家庭のイメージ(母親と父親と子ども)ともいえる。

しかし人生はそれだけではないと謳う独歩の姿は、「普通」と「変態」の間を自由に揺れ動き、その線引きを乱していくクィア性を兼ね備えている。



〈参考文献〉

・Oxford Lerner`s Dictionary「empathy」.empathy noun - Definition, pictures, pronunciation and usage notes | Oxford Advanced Learner's Dictionary at OxfordLearnersDictionaries.com.最終閲覧日(2026.4.24)

・松浦優『アセクシュアル アロマンティック入門 性的惹かれや恋愛感情を持たない人た

ち』、株式会社集英社、2025 年 2 月 22 日

小説における恋愛/非恋愛の曖昧化 ー吉本ばなな『キッチン』をAroリーディングするー

吉本ばなな『キッチン』

以前、Aro/Aceと恋愛にまつわるフィクション作品に関する記事を書いたことがある。

本記事は、それを踏まえて実際に自分が大学の講義の最終課題として提出したレポートに手を加えたAroリーディングである。

初めて実践した読解の試みなので、足りないところも多々あると思うが、温かい目で読んでいただけると幸いである。

 

今回 Aro リーディングの対象として扱う作品は『キッチン』だ。

『キッチン』は吉本ばななによる短編小説作品、およびこれを表題作とする短編集で、本レポートでは、1988 年に刊行された短編集内の「キッチン」とその続編である「満月―キッチン 2」を扱う(ここでは、二つの短編を地続きの物語作品として呼ぶ際に『キッチン』という表記を使う)。

主なあらすじとしては、「キッチン」では主人公の桜井みかげが思いがけない縁から田辺雄一の家へ居候することとなり、その生活を通して祖母の死から立ち直る様子が、「満月―キッチン 2」では雄一の母親(実際は父親)であるえり子の死の後に雄一とみかげが喪失を共有する様子が描かれている。いずれにせよ、どちらの作品でも特にみかげと雄一の二人を中心として物語は展開していく。

男女が出会い、ともに生活をしていくという行為そのものは、現実においてもロマンティックラブイデオロギーの文脈に囚われやすい。実際にみかげは雄一と同居していることを知った元恋人に「君たち今、うまくいっているんでしょう。」(吉本、36)と言われたり、えり子の同僚にみかげがヘテロロマンティックであることを前提とした発言を受けたりする(吉本、115-116)。

 

『キッチン』の Aro リーディングにおいて注目すべきポイント

今回『キッチン』を Aro リーディングする際に注目したいポイントは、①桜井みかげをアロマンティックとして解釈できること、②みかげとみかげのもとを訪ねてきた女性との会話、③終盤における雄一の発言、の三つである。

まず、①についていえば、みかげはアロマンティックであると解釈できる部分がいくつかある。

作品内にはみかげの元恋人が登場し、回想の際に「どんなに夢中な恋をしていても」という語りがあることから、みかげがアローロマンティック(他者に恋愛的に惹かれるという恋愛的指向のこと(松浦、21))であることが明示されているように見える。

しかしその一方で、作品内でみかげが恋人と交際していた際にどのような心情を抱いていたのかに関する具体的な描写はなく、元恋人が「でも、君の好きとか愛とかも、俺にはよくわかんなかったからなあ。」(吉本、31)という発言をしているように、少なくともみかげにとっての「恋愛」が世間的に主流なものとは異なっていたのではないかと考えられる余地がある。

この時点でそもそもみかげは他人に対し恋愛感情(と世間的に思われるもの)を抱かない人間なのではないかと考えられる。

次に②は、みかげがかつて同居し、えり子が死んだ後もたびたび家に訪れるほどの親密な関係になった雄一の大学のクラスメートの奥野とみかげが会話をする場面である。この場面では奥野は雄一に対して想いを寄せていることが彼女のセリフを通して描写されている。

ここで大切なのは、奥野がみかげに対して放つ「恋人」や「恋愛」という言葉である。

奥野は「恋人としての責任を全部逃れてる。恋愛の楽しいところだけを、楽して味わって、(中略)でも、恋愛っていうのは、人が人の面倒をみる大変なことじゃあないんですか?」(吉本、99)と話しており、明らかに「恋愛」の定義を一義的なものとして、またはっきりと恋愛/非恋愛を線引きし、それを踏まえてみかげを攻撃していることがわかる。

それに対してみかげは、「あなたの言ってることの中に、たったひとつ、私の気持ちだけが入ってなかった」(吉本、99)と返しており、奥野の一方的な「恋愛」の定義づけと、そこから生まれる恋愛伴侶規範的な発言に抵抗を示している。奥野に対するみかげの態度やセリフは、明らかに恋愛/非恋愛の線引きをあやふやにする Aro 表象なのではないかと考えられる。

③の雄一のセリフというのは、物語終盤で母親の死に対していまだ立ち直れず旅行へ行った雄一に、出張していたみかげがカツ丼をもって訪ねていく場面において発せられるものである。「どうして君とものを食うと、こんなにおいしいのかな。」(吉本、135)という雄一に、みかげは「食欲と性欲が同時に満たされるからじゃない?」(吉本、135)と、冗談交じりでまさに恋愛伴侶規範的な発言をする。

ここで雄一は、みかげに対して「違う」と言いながら、「きっと家族だからだよ。」(吉本、135)と返答をするのだが、注目すべきはこの「家族」という言葉である。「食欲と性欲を同時に満た」すというのは、まさに既存のジェンダー規範から生まれる発言であり、ある意味でみかげがこの場面においてだけは本人を妻、雄一を夫とする(もちろんジョークとして)「夫婦」として見立てていることがわかる。

それに対して雄一の「家族」という言葉は、夫婦だけに限定されないより包括的なものである。ヘテロロマンティックラブイデオロギーに収束されがちな男女の関係の描写を、物語終盤で「家族」であると総括することは、Aro 的なだけではなくまさにクィア的な表象ともいえるのではないだろうか。

 

まとめ

このように、『キッチン』はいくつかの場面から恋愛と非恋愛の線引きを曖昧にするようなAro 的な表象が読み取れる。

特に先ほど挙げた2の奥野セリフというのは、現実のアロマンティック当事者も遭遇するような一義的な定義づけとそこから生まれるヘテロロマンティックラブイデオロギーに基づく攻撃的な発言と共通するところもあるだろう。

それに対してみかげの態度がはっきりと抵抗を示しているといえることから、『キッチン』は紛れもなく Aro 的な作品であり規範をかき乱す可能性を大いに保持しているように思う。

 

『キッチン』の Aro リーディングを経て

Aro リーディングといいながら、私がこの行為を単に「あるキャラクターをアロマンティックと解釈する」ことだけに限定しなかったのは、「恋愛の定義づけそのものが人によって多様なものである」という先述した個人的な意見によるものだ。誰かがアロマンティックと解釈したキャラクターは、また別の誰かにとってはアローロマンティックと解釈されうるものであり、それを否定しないこと自体が「恋愛的なもの/恋愛ではないもの境界線が攪乱されうる」証拠なのではないかと考える。

そのため、ここでは『キッチン』の主人公桜井みかげがアロマンティックであるという意見について具体的で明瞭な根拠が足りなかったかもしれない。

しかし、大切なのは「その人がアロマンティックか否か」というよりも、「恋愛は一つの定義に収束されるものではなく、その多義性の中にヒエラルキーは存在しない」ということを物語で再確認することなのではないかと私は考える。

小説は、文章によって明確に「これは恋愛である」と断言できうるジャンルである(ただそのように書けばよいだけなので)。しかし、そのようなことをせずセリフや細やかな心理描写によって分節化できない感情を表象することができるのも小説の強みであり、『キッチン』はまさにその強みを生かして読者が恋愛/非恋愛の境界線を曖昧にし、人によってさまざまな読み方ができる可能性を残している。

今回は私の個人的な定義づけによる Aro リーディングを実践したことで不足している部分も多々生じたと思うが、あらゆる物語において、たとえそれが「恋愛」を主題としたものであっても、恋愛/非恋愛の境界をあいまいにすることができるという可能性が少しでも提示する試みを引き続き行っていきたいと考える。

 

〈参照・参考文献〉

・松浦優『アセクシュアル アロマンティック入門 性的惹かれや恋愛感情を持たない人た

ち』、株式会社集英社、2025 年 2 月 22 日

・吉本ばなな『キッチン』、株式会社新潮社、2024 年、5 月 30 日

Q.Aro/Ace でも''恋愛''にまつわる作品を楽しむことができるの?という問い

A.少なくともAro/Aceスペクトラム上にいる自分はノリノリで楽しんでいるので、私のような人は他にもたくさんいるのではないかと思う

厳密に言えば、私は自分にエーゴロマンティック(自らが他者に恋愛的に惹かれることはないが、恋愛的空想などを楽しむ恋愛的指向)かつクワロマンティック(友情と恋愛感情の区別をつけない恋愛的指向)かつエーゴセクシュアル(自らが他者に性的に惹かれることはないが、性的空想などを楽しむ性的指向)というラベルを貼っているAro/Aceスペクトラム上の人間なのだが(ややこしくて申し訳ない)、もちろん今後このラベルをはがしたり貼り替えたりすることは起こりうるということを最初に述べておく。

また、ここに書いてある内容はAro/Aceスペクトラム上にいる一人間としての意見であり、同じAro/Aceスペクトラム上にいる人でも人によって多様な意見があり、それらを否定する意図は全くないということ、私の意見はまだ知識も議論も未熟なものであることもご了承いただきたい(最近は本当に心の底からAro/Aceのオタクの人と話をしたい!)。

このブログの内容はあくまで私個人の意見であることを、今一度主張しておく。

そういうわけでタイトルの内容に戻りたいのだが、そもそもの話、先程も述べたように私は恋愛感情というものが分からない人間である。

そんな私がどのように恋愛にまつわるフィクション作品を楽しんでいるのか?

当然なのだが、この問いを出すと、そもそも大多数の人はどのように恋愛にまつわるフィクションを楽しんでいるのか?という疑問に至ることになる。

もしかしたらバカげた問いに聞こえるかもしれないが、あえてこの問いを出すのは、例えば少女漫画を読むのが好きなAroの人に対して「少女漫画の恋愛模様が楽しめるならAroではないのでは?」と言ったような誤解に対して反論をしたいからでもある。

 

「心の模倣」による楽しみ

まず一つ目に、いちAro/Aceスペクトラム上にいる人間としての感覚を述べさせてもらうと、(正直説明が難しいのだが)私は恋愛にまつわるフィクションを読むとき、「感情移入をしない」楽しみ方を行っている。

例えば架空上の人物AとBがデートをしたり駆け引きをしたり、突然第三者Cが現れて三角関係になったりするときに、彼らの間に沸き起こるとされている「愛しさ」や「さみしさ」「嫉み」などの感情を、自分なりのレンズを通して壁に投影したうえでそこにキュン…とする。

より詳しく述べると、自分が実際にAやBなどの人物に共感して、彼らと一緒に恋愛から生まれる心の動きを自分のものとして楽しむことはないけれど、私の中にあるレンズを通して「感情の解釈」を行い、そのうえでAとBの間に湧き上がっている情動の様相そのものに萌えている、といった感じである。(再三いうが、これは本当にあくまでいちAroとしての私個人の感覚であって、共感を通して恋愛にまつわるフィクションを楽しんでいるAroの人もいるかもしれない)。

この感覚をどれくらいの方に共感していただけるかはわからないのだが、少なくともこれが私が恋愛にまつわるフィクション作品を楽しむやり方の一つである。

この感覚について、より多くの人にわかりやすく説明する手がかりを与えてくれているように思うのは、松浦優さんの『アセクシュアル アロマンティック入門 性的惹かれや恋愛感情を持たない人たち』(2025、集英社新書)の第九章「Aro/Aceのレンズを通して見えてくるもの」にある記述だ。

この章で松浦さんは、トム・ガニングの「アトラクションの映画」という概念(登場人物に同一化したり物語世界に没入せず、表面的な部分からもたらされる刺激によって快楽を与える映画のこと)や、泉信行が提示した「心の模倣」という概念(物語の登場人物に感情移入することなく、登場人物の情動を自分の心の中で作り出すこと)を用いて、たとえ他者に恋愛的に、もしくは性的に惹かれることのない人でも恋愛にまつわるフィクション作品を楽しむことを説明できるのではないかと述べている。(松浦、240-245)

私はこの章を読み、私が恋愛にまつわる作品を読むときに起こっているのが、まさにこの「心の模倣」に近いことなのではないか...?と気づくことができた。

私は恋愛にまつわるフィクションを読んで、自分のレンズでさまざまな感情を映し出すことはできても、それを同じシチュエーションになったとしても自分の心の中から生み出すことはできないように感じるのである。

 

そもそも人を「好きになる」ってなんだ?

というか、よくよく考えてみれば、そもそも人を「好き」になるということ自体がとても不思議なことである。

恋愛にまつわるフィクション作品では、人が人を「好き」になる。しかし、「人を好きになる」ということはどのようなことなのか。

世間一般的な解釈でいえば、「好き」という言葉が積極的に使用されるのはおもに恋愛、もっと言うならば、ロマンティクラブイデオロギーの文脈である。殊大衆的な恋愛にまつわるフィクション作品で「好き」という言葉が用いられる場合は、たいてい恋愛的な文脈で受け取られることが多いだろう。

しかし、「好き」という言葉には恋愛的な意味に収束されない多様な意味が含まれていることもある。「恋人として」だけではなく、「人として」、「友人として」、「仲間として」など、この単語一つにはさまざまな枕詞をつけることができる。

しかし、ここで一度立ち止まって考えてみなければならないことがある。

それは、そもそも私たちは何をもって「恋愛的」かそうでないかを判断しているのだろうか、ということだ。人の心が記号的に可視化されるようになり、「この記号が出たからこの人は恋愛的な感情を抱いている」、などという現象が人類に起こるようにならない限り、私たちは「恋愛感情」というものを完璧に説明することは誰にも不可能なはずである(そもそも人間の感情を記号化できるのか、という問いにも繋がる)。

よく恋愛感情を抱いているととらえられる現象の中に、「胸が高鳴る」や「その人のことしか考えられなくなる」といったものが提示されることがある。特に恋愛を扱うフィクション作品では、そのような現象の描写が恋愛感情の表象として描出されたり受容されたりする。

しかし、表象物の中で記号的なコードとして扱われているこれらの表現を、現実でもそのまま置き換え、身体に起こる現象と人間の感情を簡単にイコールで結びつけることは浅はかな行為ではないだろうか。

「胸が高鳴」っていて「その人のことしか考えられなく」なった人が「これは恋愛感情ではない」と主張をするときに、他人が「いや、それは恋愛感情である」と決めつけることは傲慢に他ならない。

このように、「恋愛的」なものというのは、実は厳密に定義ができない非常にあいまいなものであるというのが私の意見だ。もちろん、普遍的に受け入れられている傾向は存在するのかもしれないが、一度立ち止まって考えてみれば、なにをもって恋愛とし、何をもって恋愛としないかは、実は人によってばらばらであり、ばらばらであることは否定されるべきではない。

これは余談だが、私は最近とある配信者集団にハマっている。

そこではよく恋愛にまつわる番組(視聴者から恋愛に関する実体験や悩みなどを募りコメントをしていく恋愛相談企画など)が行われているのだが、そこに集うひとりひとりの視聴者の声を拾っていくと、「恋愛の価値観って本当に育った環境や背景の文脈によって左右されるんだなあ…」ということを改めて実感する。

 

恋愛/非恋愛の曖昧化による楽しみ

ここで私が提示したいのが、Aroリーディングによる恋愛にまつわる作品の楽しみ方である。

ここから先は私が大学の講義で学んだクィア批評、クィアリーディングの知識に基づいて書いたレポートをもとにしたAroリーディングの定義について説明する。

そもそもクィアリーディングは、世間一般的に「通常」とされる異性愛主義的な読み方とは異なる「誤読」をすることで、正常/変態の境界線を攪乱することとされている。

ここでは、Aro リーディングを、先述したクィアリーディングの定義と英語圏のアセクシュアルコミュニティが定着させた(松浦、25)スプリット・アトラクション・モデルを踏まえて、「恋愛的なもの/恋愛的ではないものの境界線を攪乱する」読み方をする行為だと定義づけたい。スプリット・アトラクション・モデルとは「惹かれを切り分けるモデル」である(松浦、23)。

最初に述べたように、一言で「好き」といってもそこには人によって多様な意味が存在する。例えば、世の中には「美しいと感じる」という美的な意味での「好き」や、「性的でも恋愛的でもないけれど、親密な関係を結びたい」という「好き」もある(松浦、24-25)。

ここで私が定義する Aro リーディングは、恋愛的なものとして受容されがちな「好き」という意味に多義性があることを確認し、かつそもそも恋愛的なもの/恋愛的でないものは簡単に分けることができない非常に曖昧で多義的なものであることを読み取る行為とする。

先ほどから何度も引用している松浦さんの著書の中には、昨今のAro/Ace研究で性的/非性的という区別に疑問を投げかける議論がなされていることにも言及がある(松浦、245)が、私が実践していきたいのはこの動きの枠組みにかなり近い。

なにが恋愛的で何が恋愛ではないのかという線引きが万人に共通するわけではないと実感したことがあるというのは先述の通りである。それに加えて、私は恋愛感情を持たない人間なので、強制異性愛的な文脈が強い環境の中だと「これが恋愛的なものとしてとらえられるんだ…!?」という驚きを伴った経験をしたことが一度や二度ではなく、少し生きづらさを感じていたこともある。

また、私は恋愛感情を持たない上で友情と恋愛に区別をつけないクワロマンティックでもあため、特に中学生や高校生頃は「“恋人同士”という関係性がもっともヒエラルキーが高い」という価値観にもどうしてもなじむことができなかった。

これらの経験をふまえ、恋愛/非恋愛の線引きを曖昧にし、かつ親密関係を「恋愛」に収束するだけではなく多義的に読んでいこうとすることは、松浦さんの言葉を借りれば多様な「Aro/Ace的瞬間を拾い上げる」ことにもつながっていくのではないだろうかと思う。

 

まとめ

ここまでの記述をまとめると、私が言いたかったことは以下の二点になる。

・Aro/Aceスペクトラム上にいる人でも、Aro/Aceのやりかたで恋愛にまつわるフィクションの「恋愛」要素をたのしんでいるよ!

それは必ずしも感情移入や共感、没入を伴うわけではないよ!(てか正直これはAro/Aceの人ではなくとも実践している楽しみ方だとは思う)

・そもそも恋愛/非恋愛が曖昧になる瞬間を拾い上げて読解していくという楽しみ方もあるよ!

ということだ。

一つ目と二つ目、なんか矛盾してね…?と思われる方もいらっしゃるかもしれないのだが(私も字面だけ見たらなんか矛盾してるかな...と思わなくもない)、要は一つ目は、あたかも武術経験者でない人がアクション映画を楽しむように、自分が経験し得ない「恋愛」という感情をフィクションを通して楽しむということだ。

そして二つ目は「Aro/Ace当事者として」、Aro/Aceの瞬間を見つけていく楽しみ方ということになるので、この二つは十分に両立するように思う。

ちなみに完全に余談なのだが、時々一つ目と二つ目の楽しみ方が交差するときがある。

それが恋愛にまつわるフィクションにおいて「失恋」が描かれる時である。

もちろん「失恋」の描き方にも様々なものがあるので一概にすべての「失恋」の描写が好きというわけではない(し、現実世界で友達が失恋したという話を聞いたときは楽しくない。友達が悲しい時は私も悲しい)。

その中で私が好きな「失恋」は、

「Bのことを恋愛的に好きなA」と、「Aのことは恋愛的には好きではない(ほかの文脈では好きになりうる)B」の関係性におけるAの失恋である。

この場合の失恋は確かに悲しい出来事であり、私はAの悲しみを自分のレンズに通して情動を作りあげることはできるのだが、その一方でAのBの関係性はいくらでも互いに模索していける希望があるという点でとても萌える。

その萌えはやっぱり人と人の関係は一筋縄ではいかないんだ!というカタルシスによるものでもあるし、「あ、恋はだめなんだ。じゃあ私たちはお互いにどんな関係を築けばいいんだろう」という「人間関係の始まり」という光を感じられるが故の萌えでもある。

つまり私は、恋愛/非恋愛の曖昧さゆえにおこるカラフルな人間関係の様相を眺めるのが好きなのかもしれない。

 

〈参照・参考文献〉

・松浦優『アセクシュアル アロマンティック入門 性的惹かれや恋愛感情を持たない人た

ち』、株式会社集英社、2025 年 2 月 22 日

金沢21世紀美術館訪問記

 八月に、以前から訪ねてみたかった金沢21世紀美術館へ行った。東京でよく行く美術館はたいてい西洋の古い絵画を展示しているところが多かったり、自分がよく訪ねる展覧会も西洋絵画がテーマの時が多いので、この美術館に行って初めて現代アートにどっぷりつかったように思う。

 

 Instagramで「金沢 旅行」と検索をかけるとたいてい紹介されている金沢21世紀美術館だけれど、実際に訪問してみてその理由を実感。なんといっても写真映えするところが多い。

    今では美術館で人々が作品の写真を撮る人の姿なんて自然な光景だ。それでも時々「私たちは美術館へ絵を見に来てるのか写真を撮りに来てるのか」という議論は起こるし、「絵を見ないで記録に残すことだけに専念するのはいかがなものか…」という内省に鑑賞者が頭を抱える中で、ここまで人々が自由に心置きなく写真を撮っている(ように感じる)美術館というのも面白かった。鑑賞者が写真にだけ集中しているわけじゃなくて、写真を撮る行為そのものを含めて一つのアートになる…という感じ。

これが現代美術というものなのだろうか。

 芸術に対する敷居の低さというかハードルの低さを感じて、全体的に「いろんな人に開かれている」という印象。

 

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かの有名な透明プールも鑑賞してきた(正式な作品名は『スイミング・プール』)。

この作品は小学生の頃、美術の教科書で見て「面白い!」と思ってずっと印象に残っていたのだが、数年の時を経てようやく実際に鑑賞してさらに面白いなと思ったのが、プールの上側の人とした側の人とお互いに認知はできても水面に挟まれて顔が見えないという不思議な感覚だ。

「向こう側に誰かいるな〜手を振ってるのはわかるな〜」ぐらいしか分からないのだ。

そのため記念写真を撮るときに他人が映りこんでも肖像権が守られていて、やはり写真撮影という行為にポジティブなのか。

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 その時期に「コレクション展1」も開催されていたので見てきた。

 こちらも面白い作品が多くてとても楽しかった。特に印象に残ったのが『金沢の自動ドア』と『グプンタ・ヒャン:知識の伝播』。

 『金沢の自動ドア』は、言葉で説明するのが難しいのだが鏡張りの自動ドアが延々と続いている作品だ。反対側も入り口になっているので、タイミングが合うと今まで自分の姿ばかり映していた鏡のドアの向こう側から知らない人が突然登場することになり、お互い「‼」と気まずさの入り混じった何とも言えないシュールな感情がこみあげてくる。

 『グプンタ・ヒャン:知識の伝播』は大きな一つの部屋を丸々使ったインスタレーション作品で、「東南アジアの海にまつわる歴史的遺産を現代的に解釈した大型インスタレーション」とパンフレットには説明されている。いろんな解釈ができるだろうが、私はこの作品を通して「グローバル」という概念の本当の姿を見たと思う。「グローバル」というと現代的な概念としてとらえられがちだが、それこそ知識の伝播ははるか昔から海を越えて国と国の間で行われてきた行為であって、広がっていった知識が積み重なって私たちがいるという世界史の真髄を実感させてくれる。私もいっしょに行った友達も高校生の頃世界史選択だったので、この部屋に入った時は勝手に盛り上がっていた。

 

 金沢旅行の最後の訪問地だったがすごく良い思い出になった。またいつか、機会ができれば再度訪問したい。

逃走のカタルシス

 先日パク・チャヌク監督作品の『お嬢さん』を見たが衝撃が凄まじかったので記録に残す。『お嬢さん』はサラ・ウォーターズ著『荊の城』の翻案作品で、原作とは違い本作の舞台は日本に植民地化されていた時代の朝鮮半島になっている。主人公は泥棒として生計を立てているスッキで、彼女のもとに藤原伯爵を名乗る詐欺師がやってくることから物語は始まる(実際はスッキが上月邸にやってくる場面から映画は始まるので、あくまで時系列順に並べた場合)。

 ネタバレを自重せずに書いてしまうが騙し騙され紆余曲折の末、結局はスッキと上月の姪である秀子は互いに惹かれ合い、ともに上月の支配と藤原伯舞台なのだが抜け出すことに成功する。もどかしく男性主人公たちの気持ち悪さにイライラしっぱなしの前半から、主人公二人がしがらみから懸命に抜け出す一発逆転の後半に移った時のカタルシスがとんでもなく爽快な構図になっている。これこれこういうものが見たかったのだ!と心の底からにんまりしてしまった。

 

 私が特に好きな作品が『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(以下劇場版『ウテナ』)や『テルマ&ルイーズ』なのだけれど(友達にこれを言うと「それっぽい」とよく言われる)それに通ずるものが『お嬢さん』にはあった。『テルマ&ルイーズ』は結末からいうと結構報われないバッドエンドなため、そこは『お嬢さん』とは違うところなのだが『ウテナ』は部分的に『お嬢さん』の結末と似たハッピーエンドな開けた結末ではある。

 このような作品を見ていて毎回考えるのは出来上がった土俵の卑怯さを見抜くことがいかに難しく、またそこから逃げ出すには相当な勇気が必要であるということだ。

 例えば『ウテナ』に関して言うと、『ウテナ』は劇場版もテレビシリーズも(多少の設定の違いはあれど)ある学園が舞台なのだがこの学園という閉じた世界のシステムが結構うまく作られているように感じる。『ウテナ』作品では「決闘」という用語が登場する。生徒たちは決闘の勝者に与えられる「世界を革命する力(奇跡)」をめぐって葛藤し迷走するが、(テレビシリーズでは)結局その決闘というシステムは黒幕の鳳暁生への生贄探しのプロセスの一部であった。

 劇場版ではテレビシリーズ版の黒幕の暁生はもう故人となって「みんなの王子様」的存在は幻想であることがうすうす匂わせられているのだが、その幻想をめぐっても女生徒たちの争いは終わっていない。これに関しては、上田麻由子さんの「薔薇の葬列―『少女革命ウテナ』と少女コミュニティにおける王子様という生贄―」(『ユリイカ』第49巻第15号、2017年9月、40-51頁)という文章をもとに考察を広げた部分が大きいので、興味を持たれた方はぜひそちらを読んでいただければと思う。私ももともとは課題のために手に取った雑誌で見つけた論文なのだが、とても面白かった。

 話を元に戻そう。要するに『ウテナ』の舞台設定は希少な存在をめぐって生徒たちが競争を繰り広げるシステムが根幹に隠されていて(そこで最終的に得をするのは黒幕の暁生だけ)、『ウテナ』の物語はアンシーとウテナが互いに傷つき傷つけあいながらも、そこから抜け出していく話なのだ(と個人的には思っている)。その部分が『お嬢さん』と結構似ているな…と感じた。『お嬢さん』もスッキと秀子は最初は互いに騙しあっており、男性陣はそれを利用している…と見えるストーリーなのだが最終的にはスッキと秀子が逆に男性陣を欺き彼らの世界から華麗に逃げ出していく。

 どちらの話も、最初こそ女性の主人公たちが男性たち(もしくは少数の権力者)が作り上げた大変卑怯な土俵で互いに傷つけあったかもしれないが、最後にはその土俵そのものが異常であるという本質を見抜き、協力してそこから去っていくのである。

 そしてこれは現実を生きる私たちにも無縁な話ではない。世の中は卑怯な土俵であふれかえっている。格差を是正に乗り出さないまま互いに競争させることで貧困を増やす政府の担い手たち。組織の幹部の数少ない席を男性が圧倒的に占めているのにもかかわらず、残りの席をめぐって女性たちを争わせる構図。どれも巧妙に暗い所へ隠されており、よく目を凝らさなければ見えてこないものだ。そこから抜け出すには勇気が必要だし、場合によっては何かを犠牲にする必要も出てくる。ここまで来ればもう退散や逃走というよりむしろ敵に立ち向かってすらいる。これらの点も含めて私は上記の作品にカタルシスを感じる部分があるのだと思う。

 

 簡単なことではないが、生きていると案外様々な局面で「あなたの卑怯な土俵の上では闘いませんよ」とはっきり意思を表さなければならない状況というものに遭遇するものである。『ウテナ』のアンシーとウテナ、『お嬢さん』のスッキと秀子どちらの二人組もその勇気を分けてくれているのかもしれない。

耳を傾けるということ

 去年の秋ごろに友達と自宅で『シックス・センス』(1999)を見た。ずいぶん前のことなのだがとても印象深かったので記録に残しておきたいと思う。*映画の内容にも触れるので未視聴の方は要注意。

 主人公は小児精神科医として活躍するマルコム・クロウ。映画は彼が元患者であったヴィンセント・グレイという青年の銃弾を受けるところから始まる。一年後に回復したマルコムは自分が真に患者を助けられていなかったことを嘆き、さらに妻に無視される苦悩の日々を過ごす中で、コール・シアーという少年に出会い交流を重ねていく。そして次第にマルコムを信用するようになったコールは自分が霊を見ることができる第六感を持っていることを打ち明ける…という具合に物語は進んでいくのだが、おそらくご存じの方も多いようにこの映画は終盤になってからようやく観客に知らされる衝撃のどんでん返しで有名である。が、今回はそのどんでん返しではない別の視点で『シックス・センス』のメッセージ性について考えていきたい。

 

 私自身は幽霊が見えたりその存在を信じたりする人間ではない(見たことがないので)。しかし、例えばある人の身体から命の灯が消えようとするとき、「死にたくない」という気持ちや「まだやり残したことがある」という未練だけが昇華されきれず身体から押し出されて独り歩きし始めたら…この思いや未練こそが『シックスセンス』に登場する幽霊たちの正体なのではないか、と想像したことがある。

 そんな幽霊たちはみんな助けを求めている、とマルコムは言う。何か訴えたいことがあり、だからこそコールの前に姿を現すのでは、と。しかし実際、生者は死者を助けられない(映画の中では母親に殺された少女がコールの手によって母親を告発することができたけれど、これからコールが出会う霊たち全てに同じことをしてあげられるわけじゃない。ところで少女の葬儀の場面で犯人の母親だけがが赤いスーツを着ていたのは面白い伏線だ)。人間は死んだ人を生き返らせることも、時間を巻き戻すこともできないからだ。そんな中で生者たちが唯一死者にしてあげられること、それが「聞いてあげる」ことなのだ。ただ相手の話を聞くだけじゃなくて、相手の気持ちを受け止め、信じて忘れないこと。これは相手の冥福を「祈る」と呼ばれる行為に近い気もする。

 コールはマルコムに「死者と対話してみてはどうか」という提案をされたときも、「死者がほかのだれかを苦しめたいといってきたらどうするのか」と心配するどこまでも利他的な少年である。私は自分の持つ能力や存在にわざわざ意義を見出そうとする考え方(「私はこれをするために生まれてきた」というような)は苦手だけれども、もしなぜ死者の姿が見えるのがコールだったのかという問いにあえて答えを探す必要があるならば、その答えはきっと彼の勇気と献身的な精神にあるのではないかと思う。

 コールはこれからもいろんな幽霊と出会い、彼らのやりきれない気持ちに耳を傾けていくのかもしれないが、それは「コールに霊が見える能力があるから」という単純な因果関係からではなく、ましてやその行為が誰かに称賛されるからというわけでもなくて、彼が無念のうちに亡くなっていった他者を思いやる気持ちがあるからだ。

 周囲の人には見えないものが見える恐怖は私たちが想像する何倍も恐ろしいことのはずだ。勇気を出して幼い少年が幽霊と向き合っていく姿は、何とも切なくそれでいてしたたかである。映画序盤において大好きな母にすら苦しさを打ち明けられないときにコールが心のよりどころにしたのが神様だったところには一種のもの哀しさがある。

 

 そういえば、先日鑑賞した『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』では鬼太郎が苦しみの中で死んでいった時弥に何かしてほしいことはあるかと問うた時、時弥が最後に残したのは「忘れないで」という言葉だった。

 『シックス・センス』でも『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』でも、誰かの死の背景にはどんな経緯があったにせよ、かつて明るい未来を歩むはずだった命が存在した事実を「聞いて」、「知って」、そして「忘れないで」と訴えている。

ブログ始まり

こんにちは。

春休みなので、いい機会だと思ってをブログのアカウントを開設してみましたが、続くかわからないですね…。

個人的に面白い記事を読みたいなという気持ちの方が強いので、更新頻度はそんなに多くないかと思いますが、映画やアニメをよく見るのでその話をつらつら書けたらいいなと思います。

よろしくお願いします。