moremorenore’s diary

ゆったりゆるゆる

わたしたちは、誰も間違っていない【映画の記録-ユンヒへ-】

 先日随分視聴を先送りにしていた『ユンヒへ』をやっと見れたので記録に残す。北海道と韓国の冬の様子を静観的に、かつ穏やかに描いてあるのでとてもゆったりした気持ちで見ることのできる映画だった。

 

 韓国で暮らすシングルマザーのユンヒのもとに一通の手紙が届く。ユンヒの娘のセボムはその手紙を盗み見てしまうが、それをきっかけにして母と日本旅行へ出かけることとなる…というように物語は始まる。

 実は主人公のユンヒはクィア(レズビアン)で、手紙の送り主はかつて同級生で互いに想いあっていたジュンからのものだった。セボムはジュンからの手紙を読んで母の秘密を知り、彼女と母を会わせようと計画したのだ。最終的には二人は再開を果たしユンヒは新たな一歩を踏み出す。

 

 

 この映画で注目すべきは、ユンヒとジュンの学生時代の悲恋は物語を始めるうえでの前座でしかなく、当事者はただただ辛い現実を生きていますという一方的な語りだけで話を終わらせていないところだ。もちろんこれはLGBTQの人々が多くの困難や差別に直面している事実から背を向けているからというわけではない。

 つい最近、SNS上でクィアの人々が描かれる映画では悲恋が多いことが話題になっていたことがあった。これはその悲恋の物語が、マジョリティー側(ヘテロセクシュアルの人々など)に「消費」されがちであるという懸念があるためだ。一方今作では、ユンヒが兄と違って大学に進学させてもらえず、ジュンに想いを寄せていたことを契機に精神科へ通わされていたという、彼女がまさに男性中心社会の軋轢やクィアへの偏見にさらされていたことに関する情報はユンヒの独白の中でのみにしか出ない。さらにユンヒとジュンの学生時代の回想や別れの直接的な場面は登場しない。『ユンヒへ』においてはいわゆる大衆的にウケがちな劇的な悲恋の場面は前面に出てこないのだ。

 

 それでもこの映画が、クィアの人々の悲恋だけが描かれた物語よりも私たちに強く訴えかけるものがあるのはなぜだろうか。それはこの作品のメッセージがマジョリティの大衆に向けたものである以前に、自分のアイディンティティについて悩み苦しんでいる人たちに対して「あなたは間違っていない」と肯定の意を送るものだからではないかと考える。

 当然だがジュンと別れた後もユンヒの生活は続いたはずだ。しかしユンヒの過去の出来事はその後の彼女の人生に暗い影を落とし続け、彼女が自分のために生きる勇気を奪ってしまった。それは彼女が他人に否定されていた自分の真の姿を自分でも否定していたからでもある。

 映画の終盤、ジュンとの再会のあと韓国に戻ったユンヒはついにジュンへ返事の手紙を書く。そこには「わたしたちは間違っていなかった」「私もこれ以上恥ずかしいと思わないようにする」という過去と現在の自分に対する肯定がつづられている。そこからは彼女が過去の自分を自分で認めることができたことで、ついに自らの人生を歩む意志をもてたことが伝わってくる。序盤では「母さんは何のために生きているの?」とセボムに尋ねられて他人軸の答えしか出せなかった姿とは打って変わり、自分のために生きようとするユンヒの姿の変化に背中を押される。

 「差別はいけない」「差別によってこんな悲しい出来事が起こる」というメッセージ性は大事だし無くすべきではない。が、そのようなわかりやすい道徳的なメッセージを受け入れられやすく脚色しただけでは実際に当事者が苦しんでいる様々な事柄に「物語」性を付与してフィクションのように思わせてしまう面があることは否めない。逆にユンヒのように周りに押し付けられた生活に溶け込んでいるように見えて実は苦しんでいるキャラクターの物語は、地味かもしれないが私たちのすぐそばに当事者がいるかもしれないということを自覚させる強いメッセージを放つこともある。

 

 

 大きな遠回りをしたかもしれないし、社会や周囲の人間に傷つけられた過去は消えない。それでも時を超えて二人はようやく新しいスタートを切ることができたという希望を示したところに、『ユンヒへ』の根幹の暖かいメッセージが感じられる。彼女たちは何も間違っていなかったのだ。現実の私たちもどんな属性を持っていたって、誰も間違っていないように。

 

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各国によって特色が出てきそうなヒーリング映画 【映画の記録-リトルフォレスト 春夏秋冬-】

   先日『リトルフォレスト 春夏秋冬』を見た。こちらは韓国版で、原作は日本の漫画作品であり日本でも同じくリトルフォレストの題名で映画が公開されている。

   都会の暮らしに疲れたへウォンは久々に田舎の故郷に帰ることになる。旧友や田舎の暮らしの中で、大学受験の後自分より一足先に家を出ていった母を思い出しながら自分を見つめ直すことになるが…という具合で物語は進む。

 

   この映画の魅力の一つが、随所で登場する食事だ。寒い冬にはすいとん(수제비)、雪が解けて春になれば甘い春キャベツを使ったお好み焼きや揚げた花を食べる。夏にはそうめんを食べ、また秋がやってきて寒くなり始めたらトッポギ(떡볶이)を…という感じで季節の変化にともない、へウォンの母との思い出とともに様々な料理が登場する。幼い頃から親の実家に帰省する度に韓国の田舎を経験してきた私にとっては(もちろん私だけではなく韓国の人々にとっても)どの料理も馴染みがあって、「今日の夕食はこれにしてみようかしら…」なんて気持ちにさせる。

   それに食事の場面だけではなく、一から料理するところから描写されるのでそれを見ていても心が落ち着いてくる。食材を煮る音、焼く音、切る音、一つ一つが丁寧に拾われていてとても良い。

  

   私はまだ日本のリトルフォレストを見たことはないのだが、もちろん出てくる食事や料理の家庭や田舎の風景は変わってくるだろう。その人たちの生きる地域によって、馴染んでいる料理も味も変化する。

   その他にも、目に見える料理などの要素以外に国の様相に合わせていろいろ日本版から変更した点があると監督自身が語っているのが面白かった。例えば日本版では二部作になっているのに対して韓国では早い物語展開が好まれる(韓国人はせっかちとよく言われる。私もなんとなく身に覚えがある)ため春夏秋冬を一つにまとめた…など。

   リトルフォレストで扱われる題材は各国によって違う味や魅力が出てくるだろうから、それを比較したり共通点を見つけたりしてみるのも面白いかもしれない。

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【参照】

「韓国版『リトルフォレスト』 日本版とココが違う!」(2018年2月21日).シネマトゥデイ.

https://www.cinematoday.jp/news/N0098604

(2024年3月12日)

男性中心社会にアッパーカットをくらわすかのような 【映画の記録-哀れなるものたち-】 ※ネタバレ注意

 友達の口コミの評判がよく、先日ランティモス監督の『哀れなるものたち』を見てきた。原作のある作品なのだそうだがまだ未読であるため、今回は映画だけを見て感じたことを記録していく。今後機会を設けて原作を読んだうえでまた改めて記事を書きたいと考えている。※ネタバレを自重していないので未鑑賞の方はご注意して頂きたい。

 ある妊娠した女性が投身自殺をするが、天才外科医ゴッドウィンがおなかの中にいた胎児の脳を彼女に移植しベラ・バクスターを誕生させる。驚くほどのスピードで成長したベラはより開けた世界へ出ていく…という感じで物語は進んでいく。

 

 エマ・ストーンの演技がすごくよくて、キャラクターもそれぞれクセがあり結構長い映画だったのだが飽きることなく見ることができた。全体を通して痛快な感覚を味わわせてくれる。ベラを生み出したゴッドウィン、ベラに恋したマックス、そして最初はベラを性的な道具ぐらいにしかとらえていなかったダンカンにいたるまで、基本的に男性の登場人物は最初は女性を(意識的であれ無意識的であれ)下に見ている。が、最終的に彼ら(ダンカンは特に)はことごとくアッパーカットを食らってベラを支配する立場から退散していく。ベラは社会の制約にただただ囚われることはなく、文字通り生まれたての純粋な視線で世の中を見つめ、そして成長する。

 

 私は映画を見ながら教育学者、保育園や幼稚園教諭の方とこの映画を見てみたら面白いかもしれない…と思った。例えばゴッドウィンの家にいたときに、彼女がセルフプレジャーを習得する場面がある。この時マックスは「良識な社会に反する」と批判するのだが、セルフプレジャー自体は悪いこととは言えないし、こういう時は「自分だけのプライベートの空間が確実に確保されたときにだけできる行為」であると適切に指導すればいいよな…と思う。また、私が一番印象に残ったのがアテネでのシーンだ。初めは死体にナイフを刺しまくりカエルを無邪気に殺してしまっていたベラだが、貧しい人々を見て心を痛める彼女の姿は子どもが他人との交流をとおして共感性や道徳観を見つけていく様子と重なる。

   ベラ本人はスポンジのように様々なことを吸収し消化して成長していく存在なので、このような視点を含めて日々幼児の成長に向き合っている方々にもベラというキャラクターの成長について意見を聞いてみたいなと感じたのだ。

 

 ただ、いくつか違和感を持った点もある。ここまでパリの娼婦館での場面いるのかな…とは思った。私の感覚で申し訳ないのだがほかの都市でのシーンの長さに比べてパリのシーンの長さの比重が長いんじゃないかな…と感じたのだ。

   また、もしこの映画がフェミニズムを主題の一つとして添えているならここで避妊についての言及はなくていいのかなという感想をもった。蛇足になるのかもしれないのだが、なんせ妊婦が投身自殺するシーンから始まる(そしてベラの脳はその女性の子どもである)映画なので①妊娠という概念が根幹に存在する ②妊娠に対して明るいイメージがない という点から見ても、ちょっと気になるところではあった(後日SNSを見たら同様の感想も見られたので少しほっとした)。

 

 最後にもう一つ。最後ベラが医者になる、と決めたところについて。正直私はアテネでの場面が印象深く残っていたので何となく彼女が貧困な人々や困難な人々を助ける非営利事業に参加するのかなあ…なんてぼんやり思ってたのだが、医者になるというのは意外だった。というのも私は全体的にゴッドウィンの描写から、この映画は医者に対してポジティブなイメージを持たせてないな…と感じていたからだ。「マックスのような、他人の身体をいじくりまわす医者にはならない」と、負の連鎖を断ち切る的な意味合いなのかと思っている(ラストがラストではあるけれど)。

   恐らくそれまで自分たちが支配していると思っていた女性に逆にヤギの脳を移植されるというどんでん返しは確かに男性中心社会に一泡吹かせている。が、そもそも他人の身体を傷つけていじくりまわしているこの映画の根幹設定自体があまりフェミニズム的なモラル感のそぐわない気がしてしまう…のは否めない。しかしそもそも原作もフェミニズムだけが主題なわけではないし、設定やストーリーそのものは斬新で男性中心社会に対する痛烈な批判的視点がある。

 

   ともかく面白かったが、アッパーカットをヒットさせたけど、HPが減っていないかもしれない…というようなイメージはある。

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逃走のカタルシス 【映画の記録-お嬢さん、少女革命ウテナ-】

 先日パク・チャヌク監督作品の『お嬢さん』を見たが衝撃が凄まじかったので記録に残す。『お嬢さん』はサラ・ウォーターズ著『荊の城』の翻案作品で、原作とは違い本作の舞台は日本に植民地化されていた時代の朝鮮半島になっている。主人公は泥棒として生計を立てているスッキで、彼女のもとに藤原伯爵を名乗る詐欺師がやってくることから物語は始まる(実際はスッキが上月邸にやってくる場面から映画は始まるので、あくまで時系列順に並べた場合)。

 ネタバレを自重せずに書いてしまうが騙し騙され紆余曲折の末、結局はスッキと上月の姪である秀子は互いに惹かれ合い、ともに上月の支配と藤原伯舞台なのだが抜け出すことに成功する。もどかしく男性主人公たちの気持ち悪さにイライラしっぱなしの前半から、主人公二人がしがらみから懸命に抜け出す一発逆転の後半に移った時のカタルシスがとんでもなく爽快な構図になっている。これこれこういうものが見たかったのだ!と心の底からにんまりしてしまった。

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 私が特に好きな作品が『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(以下劇場版『ウテナ』)や『テルマ&ルイーズ』なのだけれど(友達にこれを言うと「それっぽい」とよく言われる)それに通ずるものが『お嬢さん』にはあった。『テルマ&ルイーズ』は結末からいうと結構報われないバッドエンドなため、そこは『お嬢さん』とは違うところなのだが『ウテナ』は部分的に『お嬢さん』の結末と似たハッピーエンドな開けた結末ではある。

 このような作品を見ていて毎回考えるのは出来上がった土俵の卑怯さを見抜くことがいかに難しく、またそこから逃げ出すには相当な勇気が必要であるということだ。

 例えば『ウテナ』に関して言うと、『ウテナ』は劇場版もテレビシリーズも(多少の設定の違いはあれど)ある学園が舞台なのだがこの学園という閉じた世界のシステムが結構うまく作られているように感じる。『ウテナ』作品では「決闘」という用語が登場する。生徒たちは決闘の勝者に与えられる「世界を革命する力(奇跡)」をめぐって葛藤し迷走するが、(テレビシリーズでは)結局その決闘というシステムは黒幕の鳳暁生への生贄探しのプロセスの一部であった。

 劇場版ではテレビシリーズ版の黒幕の暁生はもう故人となって「みんなの王子様」的存在は幻想であることがうすうす匂わせられているのだが、その幻想をめぐっても女生徒たちの争いは終わっていない。これに関しては、上田麻由子さんの「薔薇の葬列―『少女革命ウテナ』と少女コミュニティにおける王子様という生贄―」(『ユリイカ』第49巻第15号、2017年9月、40-51頁)という文章をもとに考察を広げた部分が大きいので、興味を持たれた方はぜひそちらを読んでいただければと思う。私ももともとは課題のために手に取った雑誌で見つけた論文なのだが、とても面白かった。

 話を元に戻そう。要するに『ウテナ』の舞台設定は希少な存在をめぐって生徒たちが競争を繰り広げるシステムが根幹に隠されていて(そこで最終的に得をするのは黒幕の暁生だけ)、『ウテナ』の物語はアンシーとウテナが互いに傷つき傷つけあいながらも、そこから抜け出していく話なのだ(と個人的には思っている)。その部分が『お嬢さん』と結構似ているな…と感じた。『お嬢さん』もスッキと秀子は最初は互いに騙しあっており、男性陣はそれを利用している…と見えるストーリーなのだが最終的にはスッキと秀子が逆に男性陣を欺き彼らの世界から華麗に逃げ出していく。

 どちらの話も、最初こそ女性の主人公たちが男性たち(もしくは少数の権力者)が作り上げた大変卑怯な土俵で互いに傷つけあったかもしれないが、最後にはその土俵そのものが異常であるという本質を見抜き、協力してそこから去っていくのである。

 そしてこれは現実を生きる私たちにも無縁な話ではない。世の中は卑怯な土俵であふれかえっている。格差を是正に乗り出さないまま互いに競争させることで貧困を増やす政府の担い手たち。組織の幹部の数少ない席を男性が圧倒的に占めているのにもかかわらず、残りの席をめぐって女性たちを争わせる構図。どれも巧妙に暗い所へ隠されており、よく目を凝らさなければ見えてこないものだ。そこから抜け出すには勇気が必要だし、場合によっては何かを犠牲にする必要も出てくる。ここまで来ればもう退散や逃走というよりむしろ敵に立ち向かってすらいる。これらの点も含めて私は上記の作品にカタルシスを感じる部分があるのだと思う。

 

 簡単なことではないが、生きていると案外様々な局面で「あなたの卑怯な土俵の上では闘いませんよ」とはっきり意思を表さなければならない状況というものに遭遇するものである。『ウテナ』のアンシーとウテナ、『お嬢さん』のスッキと秀子どちらの二人組もその勇気を分けてくれているのかもしれない。

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剃り残しがあっても肯定してくれるガルクラ 【日々の記録】

 ここ数日、(G)IDLEの『Super Lady』をリピートして聞いている。最近の女性アイドルのKーPOPソングは爽やかでキュートな路線のものが多いような感じがあり、もちろんそれも好きなのだが久々に重めのサウンドで、女性のエンパワーメントを歌う曲が登場したことはすごくうれしい。

※ここから先は最近のKーPOPに関する話になっていくが、私自身はそこまで詳しい人間ではないので精通している方が読むと「そこは知識・理解不足だ!」と思われることもあるかもしれない(大変申し訳ありません)。その場合はぜひ優しくコメント欄でご指摘して頂ければと思う。

 

 皆さんはガルクラという言葉をご存知だろうか。正式には「ガールクラッシュ」と呼ばれ、同性問わず誰もが憧れるカッコイイ魅力を指すそうだ(調べたところまだ定義がかっちり決まっているわけではないようで、出典によっては「女性が憧れる女性のこと」という説明がされていることもある)。どんなジャンルでも使える言葉だと思うが今ではKーPOPの、特に女性アイドルのガルクラがかなり普及しているように感じている。現在連載されてる同名の日本の漫画で知った方も多いかもしれない(私自身毎月更新を楽しみにしている)。

 私はそこまでKーPOPに精通しているわけではないが、結構前からMAMAMOOというガールズグループを推していて、彼女らのコンセプトや曲がガルクラの例として挙げられることが多い。もとをたどれば2NE1もガルクラの発信源だったし、同性問わず誰もが憧れるグループと言ったらBLACKPINKも外せないし、そういえばITZYも…と例を全部挙げようとしたらキリがない。

 調べてみるとガルクラの内実も「私が一番!」というヒエラルキー的なものから「ありのままの自分でいるみんなが素敵」という、より寛容でありつつ誰にでも受け入れられるようなものへ時代とともに変容してきているそうだ。さらに最近は自分のスタンスに関連する歌だけでなく、愛されることには自分を大切に扱う・扱われることが大切で(性的同意の話題とも関連するところがある)とうたった”Do not touch”や家父長制に対する批判のニュアンスを歌詞に含めた”Wife”のようなかなり社会的な曲も登場しているのだ。このように、ファン層と彼らの反応や社会の変化に合わせて柔軟に考証を重ねながら進化を続けていくところがK-POPの強みであり、日本のアイドル文化の足りないところなのかもしれないな…と最近はひしひしと感じている。

 

 少し話題が変わるが、個人的には「剃り残しやシミやクマがあっても肯定してくれる」ガルクラも登場してくれないかしら…とひそかに希望を抱いている。脱毛やらシミレーザーやら技術の発達にともない、「美しさ」に関する水準がどんどん上がっている昨今だが、さすがにそこまでやると息苦しい人も出てこないだろうかと最近は思っている(というか私がそう)。そういうのはやりたい人が自分のやりたいようにやればいいというならまだ全然いいんだけど、「女性の当然のたしなみだよね」というレベルまで来られると少し萎えそうだ。剃り残しがあったりよれよれのシャツを着ていたりノーメイクであったりしても(たとえ昼過ぎまで眠った休日の寝起きみたいな状態でも)「あなたはそのままでも大丈夫、かっこいいよ」と主張してくれるアイドルがいたら心強いし、コンプレックスが気にならなくなるのになあと思う。

 今現在だとMAMAMOOの、特にファサ姉さんがその像に近い気もする。”I love my body”とか結構好きなのだが「美の基準は自分で作る」と語るファサ姉さんが歌うこの曲の説得力は段違いだ。あとMAMAMOOの”HIP”という曲に、”破れたT  見せちゃうパンティ  べたつく  あたしならHIP”という歌詞があるが、これがものすごく好きで今もよくリピートして聞いている。私も歌詞にならってTシャツが破れていてもパンティがはみ出しててもまあいっか、私がやればオシャレだし、なマインドでいたい。

 ガルクラも作り手歌い手によって多様化しているみたいだし、もしかしたらこれから登場するかも…?。流行の移り変わりの速度が半端ないK-POPなので断言し難いが、なんにせよファンとアイドルたちが創っていくこれからのガルクラの未来は案外明るいと考える。こうご期待だ。

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耳を傾けるということ 【映画の記録-シックスセンス-】

 去年の秋ごろに友達と自宅で『シックス・センス』(1999)を見た。ずいぶん前のことなのだがとても印象深かったので記録に残しておきたいと思う。*映画の内容にも触れるので未視聴の方は要注意。

 主人公は小児精神科医として活躍するマルコム・クロウ。映画は彼が元患者であったヴィンセント・グレイという青年の銃弾を受けるところから始まる。一年後に回復したマルコムは自分が真に患者を助けられていなかったことを嘆き、さらに妻に無視される苦悩の日々を過ごす中で、コール・シアーという少年に出会い交流を重ねていく。そして次第にマルコムを信用するようになったコールは自分が霊を見ることができる第六感を持っていることを打ち明ける…という具合に物語は進んでいくのだが、おそらくご存じの方も多いようにこの映画は終盤になってからようやく観客に知らされる衝撃のどんでん返しで有名である。が、今回はそのどんでん返しではない別の視点で『シックス・センス』のメッセージ性について考えていきたい。

 

 私自身は幽霊が見えたりその存在を信じたりする人間ではない(見たことがないので)。しかし、例えばある人の身体から命の灯が消えようとするとき、「死にたくない」という気持ちや「まだやり残したことがある」という未練だけが昇華されきれず身体から押し出されて独り歩きし始めたら…この思いや未練こそが『シックスセンス』に登場する幽霊たちの正体なのではないか、と想像したことがある。

 そんな幽霊たちはみんな助けを求めている、とマルコムは言う。何か訴えたいことがあり、だからこそコールの前に姿を現すのでは、と。しかし実際、生者は死者を助けられない(映画の中では母親に殺された少女がコールの手によって母親を告発することができたけれど、これからコールが出会う霊たち全てに同じことをしてあげられるわけじゃない。ところで少女の葬儀の場面で犯人の母親だけがが赤いスーツを着ていたのは面白い伏線だ)。人間は死んだ人を生き返らせることも、時間を巻き戻すこともできないからだ。そんな中で生者たちが唯一死者にしてあげられること、それが「聞いてあげる」ことなのだ。ただ相手の話を聞くだけじゃなくて、相手の気持ちを受け止め、信じて忘れないこと。これは相手の冥福を「祈る」と呼ばれる行為に近い気もする。

 コールはマルコムに「死者と対話してみてはどうか」という提案をされたときも、「死者がほかのだれかを苦しめたいといってきたらどうするのか」と心配するどこまでも利他的な少年である。私は自分の持つ能力や存在にわざわざ意義を見出そうとする考え方(「私はこれをするために生まれてきた」というような)は苦手だけれども、もしなぜ死者の姿が見えるのがコールだったのかという問いにあえて答えを探す必要があるならば、その答えはきっと彼の勇気と献身的な精神にあるのではないかと思う。

 コールはこれからもいろんな幽霊と出会い、彼らのやりきれない気持ちに耳を傾けていくのかもしれないが、それは「コールに霊が見える能力があるから」という単純な因果関係からではなく、ましてやその行為が誰かに称賛されるからというわけでもなくて、彼が無念のうちに亡くなっていった他者を思いやる気持ちがあるからだ。

 周囲の人には見えないものが見える恐怖は私たちが想像する何倍も恐ろしいことのはずだ。勇気を出して幼い少年が幽霊と向き合っていく姿は、何とも切なくそれでいてしたたかである。映画序盤において大好きな母にすら苦しさを打ち明けられないときにコールが心のよりどころにしたのが神様だったところには一種のもの哀しさがある。

 

 そういえば、先日鑑賞した『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』では鬼太郎が苦しみの中で死んでいった時弥に何かしてほしいことはあるかと問うた時、時弥が最後に残したのは「忘れないで」という言葉だった。

 『シックス・センス』でも『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』でも、誰かの死の背景にはどんな経緯があったにせよ、かつて明るい未来を歩むはずだった命が存在した事実を「聞いて」、「知って」、そして「忘れないで」と訴えている。f:id:moremorenore:20240220220607p:image

私はウェンズデーちゃんとは友達になれないかもしれない…私はなりたいけど 【映画の記録-アダムスファミリー2-】

友達と映画鑑賞会をしよう!ということになり、カラオケで鑑賞会をしてきた。友達がいくつか選んできたオススメ映画の中から私が『アダムスファミリー2』をチョイス。候補の中に『コープスブライド』もありそちらも大いに興味があったのだが、友達の「第三子を殺そうとするウェンズデーちゃん」というパワーワードに全て持っていかれてしまった。私は1を見ていない(けど結末は何となく知っている)ので「無印見てないけど続編見ても大丈夫?」と聞いたが全然問題ないとのこと。

 

この記事のタイトルからわかるかもしれないが、私はアダムスファミリーを知らないながらもウェンズデーちゃんがとても好きだ(ど素人の私が言うのもあれなのだが、ウェンズデーちゃんのファンは結構多い印象がある)。名前のインパクトさることながら、私がウェンズデーちゃんを好きな理由のうち一つが彼女のブレなさなのではないかと最近考えている。

これは別に私だけではないのだと思うのだけれどありのままの自分でいるというのは案外難しい。外で自分を偽るのはある種社会的作法のような面もあるし、逆に自分の趣味を否定されればそれなりに凹むものである。そういう意味でウェンズデーちゃんのブレなさというのは「社会性がない」と非難されそうなものではあるけれど、それは社会性がないというよりはむしろ芯の強さと呼ぶべきものかもしれない。彼女と彼女の家族の趣味や好みは他の人々に易々と受け入れられるものではないが、それを理由に彼らは他人を糾弾しないし、自分たちと共通点がある人ならば少しずつ仲良くなっていくことだってできる。これは異端を責めたて無理やり自分たちに同化させようとする作中の陽キャキャンプ集団と強くコントラストをなしているのが、この映画の重要なアクセントなのだと思う。私はフィクションにおける善属性特有の暴力的な面がとても嫌い(もう一周回って好き)なためキャンプの演劇シーンは、サンクスギビングを皮肉な視点で語っていることも含めて愉快痛快に見れた。

例え嫌われても怪訝な目で見られても、ウェンズデーちゃんが他人の都合で簡単に自分を曲げることは無い事実は私のように他人に影響されやすい自覚がある人間にとっては安心感がある。そういうわけで私はウェンズデーちゃんに憧れに近い気持ちを抱いてるし、もし私があの世界にいたのなら彼女と友達になりたいとすら思っているのだが、当のウェンズデーちゃんは私とは友達になってくれないだろうなと思った(私自身もアダムス家の流儀に敬意は払っても、100%ついていける自信はない)。

 

それにしてもアダムスファミリー2は、デビーさんがビジュアル的にアダムス家と正反対に造形されている(白い服、明るいボブカットetc)など視覚面に注目しても興味深いし、家族の絆が強く人道的だけど「普通」には馴染めない家族VS「普通」の中にいるけど非人道的な一面をもつサイコパスという構図がとても面白い。

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