moremorenore’s diary

ゆったりゆるゆる

わたしたちは、誰も間違っていない【映画の記録-ユンヒへ-】

 先日随分視聴を先送りにしていた『ユンヒへ』をやっと見れたので記録に残す。北海道と韓国の冬の様子を静観的に、かつ穏やかに描いてあるのでとてもゆったりした気持ちで見ることのできる映画だった。

 

 韓国で暮らすシングルマザーのユンヒのもとに一通の手紙が届く。ユンヒの娘のセボムはその手紙を盗み見てしまうが、それをきっかけにして母と日本旅行へ出かけることとなる…というように物語は始まる。

 実は主人公のユンヒはクィア(レズビアン)で、手紙の送り主はかつて同級生で互いに想いあっていたジュンからのものだった。セボムはジュンからの手紙を読んで母の秘密を知り、彼女と母を会わせようと計画したのだ。最終的には二人は再開を果たしユンヒは新たな一歩を踏み出す。

 

 

 この映画で注目すべきは、ユンヒとジュンの学生時代の悲恋は物語を始めるうえでの前座でしかなく、当事者はただただ辛い現実を生きていますという一方的な語りだけで話を終わらせていないところだ。もちろんこれはLGBTQの人々が多くの困難や差別に直面している事実から背を向けているからというわけではない。

 つい最近、SNS上でクィアの人々が描かれる映画では悲恋が多いことが話題になっていたことがあった。これはその悲恋の物語が、マジョリティー側(ヘテロセクシュアルの人々など)に「消費」されがちであるという懸念があるためだ。一方今作では、ユンヒが兄と違って大学に進学させてもらえず、ジュンに想いを寄せていたことを契機に精神科へ通わされていたという、彼女がまさに男性中心社会の軋轢やクィアへの偏見にさらされていたことに関する情報はユンヒの独白の中でのみにしか出ない。さらにユンヒとジュンの学生時代の回想や別れの直接的な場面は登場しない。『ユンヒへ』においてはいわゆる大衆的にウケがちな劇的な悲恋の場面は前面に出てこないのだ。

 

 それでもこの映画が、クィアの人々の悲恋だけが描かれた物語よりも私たちに強く訴えかけるものがあるのはなぜだろうか。それはこの作品のメッセージがマジョリティの大衆に向けたものである以前に、自分のアイディンティティについて悩み苦しんでいる人たちに対して「あなたは間違っていない」と肯定の意を送るものだからではないかと考える。

 当然だがジュンと別れた後もユンヒの生活は続いたはずだ。しかしユンヒの過去の出来事はその後の彼女の人生に暗い影を落とし続け、彼女が自分のために生きる勇気を奪ってしまった。それは彼女が他人に否定されていた自分の真の姿を自分でも否定していたからでもある。

 映画の終盤、ジュンとの再会のあと韓国に戻ったユンヒはついにジュンへ返事の手紙を書く。そこには「わたしたちは間違っていなかった」「私もこれ以上恥ずかしいと思わないようにする」という過去と現在の自分に対する肯定がつづられている。そこからは彼女が過去の自分を自分で認めることができたことで、ついに自らの人生を歩む意志をもてたことが伝わってくる。序盤では「母さんは何のために生きているの?」とセボムに尋ねられて他人軸の答えしか出せなかった姿とは打って変わり、自分のために生きようとするユンヒの姿の変化に背中を押される。

 「差別はいけない」「差別によってこんな悲しい出来事が起こる」というメッセージ性は大事だし無くすべきではない。が、そのようなわかりやすい道徳的なメッセージを受け入れられやすく脚色しただけでは実際に当事者が苦しんでいる様々な事柄に「物語」性を付与してフィクションのように思わせてしまう面があることは否めない。逆にユンヒのように周りに押し付けられた生活に溶け込んでいるように見えて実は苦しんでいるキャラクターの物語は、地味かもしれないが私たちのすぐそばに当事者がいるかもしれないということを自覚させる強いメッセージを放つこともある。

 

 

 大きな遠回りをしたかもしれないし、社会や周囲の人間に傷つけられた過去は消えない。それでも時を超えて二人はようやく新しいスタートを切ることができたという希望を示したところに、『ユンヒへ』の根幹の暖かいメッセージが感じられる。彼女たちは何も間違っていなかったのだ。現実の私たちもどんな属性を持っていたって、誰も間違っていないように。

 

f:id:moremorenore:20240328000736j:image